6月20日から23日まで、小杉放菴研究舎の柳原主宰は、日光市と観光友好都市
協定を締結した、韓国・慶州市にのこされた小杉放菴の足跡をめぐってきました。
小杉放菴は、1926(大正15)年6月、雑誌に慶州の残存美術の紹介をするため、
取材に訪れています。同年8月1日発行の美術雑誌『アトリエ』第3巻第8号に
「慶州の古美術」として、また、1934(昭和9)年4月5日発行の著書
『草画随筆』には、「慶州記録」として、スケッチ画とともに掲載されました。
今回は、それらの記録と、『放菴日記』に出てくる場所を辿りました。
6月21日、慶州市庁舎に御挨拶し、市が手配してくださった
ガイドの孫さんに要望を伝え、まず「南山」に向かいます。
「南山」は新羅文化のすべてを示す「屋根の無い博物館」であると言われます。
小杉放菴は、茸長谷から入山しましたが、我々の足ではむずかしい
とのことなので、比較的なだらかな「三陵」から入山しました。
三陵渓谷の入口にある、手前から、第54代・第53代・第8代の新羅王陵です。
『放菴日記』には記述が無いので、当時は発見されてなかったものと思われます。
岩が自然の光背を形成している陽刻立像です。
これも『放菴日記』等に記述はありません。
手前に三尊、奥に三尊が彫られており、真中が本尊です。
これも『放菴日記』等に記述はありません。
高麗時代の作品と推定される、線刻の如来坐像です。
これも『放菴日記』等に記述はありません。
この如来坐像は、小杉放菴が訪れた当時、顎が欠け、光背も倒れていたそうです。
高さが7mあり、三陵渓谷では最大の仏像です。
頂上にて、同行の鄭さんと記念写真。茸長寺址まで行きたかったのですが、
アクシデントのために次回とし、ここから引き返すことになりました。
6月22日の分は、近日中に掲載しますので、乞う御期待。