小杉放菴研究舎|新しいお知らせ

Archive for 2013年7月

山形市主催全国産業博覧会の資料

「奥の細道・山形の旅」で紹介した、1927(昭和2)年9月に開催された
「山形市主催全国産業博覧会」の資料を入手しましたので、御披露します。
 
小杉放菴の日記の1927(昭和2)年10月17日の項には、以下の記述があります。

早朝 七時の汽車にのりて山形に向かふ 山形に博覧会ありてにぎやかなり……又のり合ひにて山形に来り 博覧会に入り見る 演芸館に山形芸者の手踊りあり 多勢のオーケストラ 多勢の踊り子 雪月花は上杉廟の雪 最上川の月 ヽヽ公園の花、花の段いかにも美しく出来たり 踊り見て居るうちに山過ぎて路ぬかり居たり……

 
当時としては、かなり大規模な博覧会であったことが伺えますが、
その資料として、下記の会場配置図や絵葉書を御覧ください。

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会場配置図

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市内会場の巡回図

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博覧会絵葉書

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歓迎門

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第一会場夜景

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第一会場内演芸館

小杉放菴は、ここの会場で山形芸者の踊りやいろいろな出し物を
見物したあと、他の会場も一巡してから、山形駅より汽車に乗り、
最上川の船着き場近くの古口駅に下車し、かめ屋に宿しました。

東京八尾町郷友会の総会へ出席

去る7月14日、旧・富山県八尾町(現在の富山市八尾町)の出身者で組織されている、
「東京八尾町郷友会」より、総会の招待を受け、参加しましたので御報告いたします。
 
東京の上野恩賜公園の一角にある「上野精養軒」を会場に、盛大に
開催され、11時より総会、12時からは懇親会が行なわれました。

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山田紘一郎会長による挨拶

「富山県民謡越中八尾おわら保存会」13名による「おわら踊り」の鑑賞で
始まった懇親会は、延々と3時間に及び、15時に幕を閉じました。

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おわら鑑賞「八尾四季」の春

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勇壮な男踊り

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輪踊り

この懇親会で、山田紘一郎会長や島崎一郎相談役より、役員の名士の方々を
御紹介いただきましたが、なかでも副会長の小林光俊さんには驚きました。

「敬心学園」ほか、各種の学校法人や社会福祉法人などを経営されている
第一人者で、「全国専修学校各種学校総連合会」の会長もお務めです。

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総踊り大会

この御婦人は、踊りが始まる前までは車椅子に座っておられた
のに、気が付くと輪の中で踊っていらっしゃいました。
 
御子息に「どうなっているんです?」と聞きましたら、「私にも
分かりません。主治医には、車椅子での外出なら良いとのことで
外出許可をいただきましたのに……」と困惑してました。
 
故郷の懐かしい「おわら踊り」を目の当たりにして、躍動する心が、
身体をも奮い立たせたのでしょうか?

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奇跡のおわら

第二部が閉会したあと、お誘いを受け、幹部による2次会で私も歓談していましたら、
山田会長が「この人分かるかね」と連れて来てくださったのが、なんと、
あの杉下楼(現・杉風荘)の経営者・五十嵐園枝さんの御子息である良和さんでした。
 
1976(昭和51)年にNHKの『新日本紀行』で放映されたとき、ナレーションで
「息子の良和さんは勤めに出て町を離れ……」と言っていた、その方です。
 
建物を八尾町(現・富山市)に寄付したときの様子なども
教えていただき、たいへん感激いたしました。
 
今年の「風の盆」には、待っていてくださるかも?と期待してます。

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左が五十嵐良和さん

郷友会には、毎年のようにお誘いをいただいてましたが、いつも行けずじまいでした。
 
今年は出席できて、ほんとうに良かったです。

「奥の細道・山形の旅」

去る6月26日から27日にかけて、芭蕉の足跡を慕って旅をした、
小杉放菴の日記をもとに散策してきましたので、御報告します。
 
小杉放菴は、1927(昭和2)年10月14日に、
友人の画家・岸浪百艸居とともに田端の家を出立しました。
 
10月17日に、新庄から山形に入ります。(14日から16日の行程については後日)
 
『放菴日記』の1927(昭和2)年10月17日の項

早朝 七時の汽車にのりて山形に向ふ 山形に博覧会ありてにぎやかなり 立石寺行きののり合ひ自動車にて四里 山寺村につく 立石寺は奇岩の山によりて堂を作り亭を設く 遊人多くうるさけれど おもしろき見どころなり 天狗岩まで行きて 下りて八幡屋と云ふわびたる茶屋にひるめし 又のり合ひにて山形に来り……(中略)……四時汽車 新庄を経て最上谷の古口に下車 かめ屋と云ふ宿を駅の人に教はりて宿す 牛小屋 藁うつ音 かまどの焚火宛?として 百年前の古狸の宿なり 炉を囲みて一酌して眠る 夜半雨音あり

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天狗岩

現在、天狗岩へは修験者のみが通行できるそうです。

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芭蕉句碑

閑かさや 岩にしみ入る 蟬の聲

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薬師堂(山寺)

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参道(山寺)

『奥の細道画冊』の紀行文には、以下のような記述があります。

……山寺の山門を入れば、にぎやかな見物衆物売りの店も並び、細道道者には、大分に当ての外れた景気、一つは例の博覧会の余波もあらうが、案内人詰所と云ふ家に、七八人も同じ姿の案内人を見受くる故、ふだんとても中々の遊覧地であるべく思はれる。……(略)

 
参道の土産物屋を見ると、この頃と現在と比較しても
参拝客は、ほとんど変わらないように思われます。
 
小杉放菴の休んだ「八幡屋」は知る人もなく、ただ、「以前、川の
増水したときに流された店ではないか」という情報を得たのみでした。
 
なお、近いうちに「山形博覧会」の資料が入手できる
見込みがあるので、そのときは、再度、御報告します。

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古口駅

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かめ屋跡

『放菴日記』の1927(昭和2)年10月18日の項

前夜清川まで船下す約束なし置きたるが 朝雲の間に青空見ゆれども 山時々来る 晴れ間を見て船に乗る……(中略)……水は漲り雨時々ふる 両岸の山勢見るに耐えたり 仙人堂はお仙人さまを祭ると云ふ 常陸坊海嶌の古伝あり 白糸の滝を見る 風落し来り雨はげし かくて清川に着く……(略)

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古口乗船場

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小杉放菴「最上川」『奥の細道画冊』より

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仙人堂

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白糸の滝

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清川下船場に建つ芭蕉銅像

最上川の船下りも行なう予定でしたが、マイカーでの
散策だったため、残念ながら諦めました。
 
「かめ屋」の情報につきましては、戸沢村役場の住民税務課長様に
御教示いただきました。伏して御礼申し上げます。
 
『放菴日記』の1927(昭和2)年10月18日の項

……二時羽黒山着山門を入りてすぐに下り あり あり 五重塔ありて それよりひたのぼり 石段十八丁 本社まで杉木立つゞき 本社斎殿 すべて雪がこいの仕度し居れり 社宮を見るに 鉄灯籠の竿石 伝教大師の木像おもしろかりし 社前に神池あり 神池に曲橋かゝる らんかん宮珠あり 末社数殿蜂子親王の墓あり 月山の参道杉並木つゞきて山に入る 三時すぎ坂を下りて山門の前に鶴岡行の乗合にのり 夕方鶴岡……(中略)……湯の浜のかめ屋につく 塩くさき湯也……(略)

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山門(隋神門)

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下り坂の階(継子坂)

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滝(須賀の滝)

江戸時代に、遠く月山から水を引いて造られた須賀の滝と祓川神社
(「出羽三山神社パンフレット」より)

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橋(神橋)下の川は「祓川」

むかし、参拝者は川で身を清めて参道を登りました。

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五重塔

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出羽三山神社(三神合祭殿)

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神池(鏡池)の曲橋は、現在は無い

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末社。手前は羽黒山東照宮

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蜂子親王の墓

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亀や

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小杉放菴が泊まった頃の門柱


 
『放菴日記』の1927(昭和2)年10月19日の項

十九日 七時半宿を出で 乗合にて大山 八時十分発 来迎寺に向ふ 途中左へ折れて善宝寺あり 寺は古く大きくおもしろかるべきが寄らで過ぐ 鼠が関下車 二時間余り遊ぶ 古跡の址を訪い弁天社に詣づ 昔は地つゞき 今は満潮なれば嶋となる……(略)

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善宝寺山門と五重塔

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念珠関址(近世鼠が関)

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古代鼠が関址

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弁天社(厳島神社)

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弁天島遠望

帰途は、村上市内で昼食をとり、のんびりと市内散策し、本物の「新巻鮭」
(塩漬けにしては水で洗い、また、塩漬けにし水で洗うのを3度繰り返す)
一切れ1,000円の高級品を惜しげもなく購入しました。
 
東宮様御成婚の際、小和田家で引出物(堆朱箱)を製作された村上漆器の店に足を
止め、延々と話を伺ってしまったので、ここでも古代朱の椀を買ってしまいました。
 
会津に着いたときには、夕方5時を過ぎてしまいましたが、「熊出没注意の
看板」を横目に、会津松平家の墓所へ45年ぶりに参拝しました。
 
NHKの大河ドラマ「八重の桜」に登場している、
会津中将・松平容保公ら、歴代の藩主の墓所も参拝しました。
 
松平容保公は、のちに、日光東照宮の第5代と第7代の宮司を務め、
神仏分離により荒廃した日光の社寺を救うべく、各方面より浄財を
集めて保晃会を設立し、社殿の修繕を行なった、日光に所縁の方です。、
 
参道の上り下りで1時間を要しましたが、夏至を過ぎたばかり
なので、午後6時を過ぎても、まだ、明るかったです。

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>容保公(忠誠神)墳鎭石

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松平容保公の墓所

山寺の上り下り、羽黒山の階段、鶴岡の善宝寺の階段、会津松平家の
山上の墓所など、この2日間、ほんとうに、よく歩きました。
 
しかし、歩いた割には、それほど筋肉痛も残らず、気分爽快の旅でした。